小説『ある少女の成長』

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「ほら、エミリ! 渡辺先輩来たよ!」

 ある日の放課後、そばに立っていた同級生で友人の中山瞳の声で、中学三年生の小早川エミリはちょうど読んでいたロバート・B・パーカーの『初秋』の世界から現実世界に引き戻された。瞳の目線の先にはスラリとした長身で顔立ちが爽やかな男子がいて、廊下をこちらに向かって歩いているところだった。その姿が目に入ったとき、エミリは自分の心臓が早鐘のように高速に脈打つのを感じた。まるで『初秋』の主人公である私立探偵・スペンサーに追い詰められた犯人のようだ。

 渡辺弘樹。エミリの通っている中高一貫校の高等部一年生だ。初めて会ったのはエミリの入学式のときだった。当時中等部二年生の弘樹は入学したばかりで右も左もわからないエミリに声をかけ、優しく世話してくれた。一目惚れだった。以来三年間弘樹を想い続けているエミリは今日こそ告白しようと待ち構えていたのだ。だが、いざ彼を目の前にするとエミリの足はまるで石膏像のように固くなってしまい、全く動くことができない。

「何やってんのよエミリ!」

「だ、だめ……やっぱりやめる……」

 急かす瞳に対して、怖気づいたエミリはそう答えた。それに対して、瞳は呆れた様子で言う。

「今更『やめる』はないわよ! もう何回目? ほら、行ってきなさい!」

 そう言って瞳はエミリを背中からドンと押し、突き飛ばされたエミリはつんのめりながら弘樹の前に出ていった。

「小早川じゃないか。どうした、大丈夫か?」

 急に目の前に出てきたエミリに対し、弘樹はそう声をかける。エミリはしどろもどろになりながら返事をした。

「あっ、せ、先輩……いえ、ちょっと躓いちゃって……大丈夫です……」

「具合でも悪いのか? 顔、赤いぞ?」

「い、いえ、なんでもないです!」

 逃げようとしたエミリだが、その様子を瞳がジト目で睨んでいる。その目は「早く告白しろ」と強く訴えていた。

「あ、あの、先輩……」

「ん? どうした?」

 怪訝そうな目でエミリを見る弘樹に対し、エミリは言葉を紡ごうとする。

「わ、私……先輩の……」

「俺がどうかしたか?」

 見つめてくる弘樹の目線と自分の目線が合うと、エミリは赤面し言おうとしていた告白の文言が吹き飛んでしまった。

「先輩、き、今日の髪型似合ってますね」

「ん、そうか?」

「それが言いたかったんです。じゃあ!」

 エミリは適当なことを言うと、不思議がる弘樹を置いてその場から逃げ出した。物陰から一部始終を見ていた瞳は「あちゃ〜」と右手で顔を覆っていた。

「本当、エミリったらシャイなんだから!」

 学校の近くの喫茶店の席で、瞳が顔に呆れの色を滲ませて叱責する。

「だ、だって……心臓が爆発しそうだったもん……」

「人間の心臓は愛の告白程度で爆発しません」

 エミリの言い訳を瞳はバッサリ切り捨てた。

「せっかく好きな人がいるのに、三年間もずーっと片思いしたままとかどういうつもり? このまま先輩が卒業してもいいの?」

「それはいやだけど……」

「だったら、手遅れになる前に告白しないと! そんな内気な性格のままじゃ、先輩のことだけじゃなくて他のことでも将来損するよ、エミリ!」

「え、え~……」

 真剣な表情でそう訴える瞳に対し、エミリは煮え切らない返事をするばかりだった。エミリ自身、内気すぎる性格・あがり症の改善の必要を感じていたが、どういう対処をすればいいかわからなかったのだ。

「ただいまー……」

 エミリはそう言って自宅マンションの玄関ドアを開けた。だが、その声はいつもに比べて元気がない。玄関で靴を脱ぎ、とぼとぼとリビングルームへと向かった。

「おかえり、エミリ」

 リビングルームでエミリを迎えたのは母・メアリーだった。イギリス・ロンドン出身の三九歳の彼女はブルネットの髪をショートカットにまとめており、瞳はルビーのように美しい赤で、頬にはエミリと同じくそばかすがある、それでいて美しい女性だ。

「どうしたの? 元気がないわね」

「え……そう?」

 エミリは自分の気持ちを悟られたくなかったため、何気なく返事をした。だが、

「あれでしょ。前に言っていた気になる先輩のこと?」

 エミリの心はすっかり母に見透かされていた。エミリは観念し、今日あったことをメアリーに話した。

「そうなの。渡辺先輩。今日こそは告白しようと思ってたのに、いざ面と向かうとあがって何も言えなくて……。ママ、よくわかったね」

 エミリがメアリーに問うと、メアリーは微笑みながら答えた。

「だって、見るからに顔に出てたもの。恋に悩む乙女の顔をしてたわ」

「もう、ママったら!」

 エミリはそう言って恥ずかしがったが、続けて悩みを話した。

「私……どうしても内気で……好きな人に告白する度胸もないし……どうしたらいいんだろ……」

 メアリーはそれを聞くと、答えた。

「エミリは昔からそうだったものね。やっぱり、自分に自信がないから内気になっちゃうのよ。自信をつければ告白でもなんでもできる度胸がつくわ」

「どうすれば自信がつくの?」

 そうエミリから聞かれると、メアリーは意外な答えを示した。

「スポーツで体を動かせるようになったら、確実に自信がつくわよ。そうね……ママは昔ボクシングをしていたから、ボクササイズなんてどうかしら?」

「えっ、え~……」

 エミリは困惑した。母が昔ボクシングを嗜んでいたということは以前から聞いていたが、まさか自分に提案されるとは思っていなかったのだ。

「そんな、パーカーの『初秋』じゃないんだから……」

 エミリが読んでいた『初秋』でも、主人公のスペンサーが虚弱児の少年にボクシングを教えて肉体的にも精神的にも鍛えるという描写があったのだが、メアリーの提案はあまりにも似通っていたためかえって荒唐無稽に思えた。

「あながち間違ってもいないわよ。マウスを使った動物実験で運動をさせるかさせないかで精神的健康状態に大きく差が出たともいうし」

 メアリーは科学的な根拠を引用してそう説明した。

「でも、いくらなんでも突飛すぎるよ……」

「じゃあ他になにかいい方法思いつく?」

 渋るエミリにメアリーはそう問いかける。

 メアリーの言った通り、エミリは内気な性格の改善についていい方法を考えつかなかった。自己啓発本などは胡散臭くて頼りたくなかったし、精神科医などが治せるものでもないと思われた。体を動かすということで他のスポーツについても考えてみたが、エミリはスポーツの経験がないため集団でやるスポーツや複数人でやるスポーツは不向きだと考えられた。その点、ボクササイズは一人でやるものだからまだましだ。他の方法も思いつかなかったし、ここは一つ「先ず隗より始めよ」のことわざのごとく母が眼の前に提示したボクササイズという方法を試してみるべきかと思われた。

「う~ん、じゃあ、見学するだけなら……」

 エミリは母の提案に対し譲歩した。

「よし。じゃあ近くでボクササイズできる施設を調べてみなさい。ネット検索は私より得意でしょ?」

 メアリーはそう言う。

「わかったわ。ちょっと調べてくる」

 エミリはそう答えて、パソコンで調べるべく自分の部屋へと向かった。このときはまだ「見学してみてダメそうだったらやめとこう」くらいに思っていた。

 数十分後、エミリは調べてきた施設のリストをプリントアウトしてメアリーのもとに持ってきた。

「はい、ママ。この近くのジムとかをリストアップしてきたわ」

「見せて。どれどれ……」

 メアリーはエミリからリストを渡されると読み始めた。すると、ある部分で彼女の視線が止まった。

「エミリ、この『朝宮ボクシングジム』ってところだけど詳しい情報を教えて」

「えっ、そこ? 池袋だからここからちょっと遠いし、そんなに規模も大きくなさそうだったから私的にはなしかなって思ってたんだけど……」

「いいから」

「わかった、スマホでホームページを開くね」

 なんでこのジムが気になったんだろう、と首を傾げながらエミリはスマホで朝宮ジムのサイトを開き、メアリーに渡した。

 メアリーはしばらくそのページを見つめると、スマホから顔を上げてエミリに言った。

「エミリ、このジムに行きなさい」

「えっ?」

 母の言っていることの意味がわからなかった。今知ったばかりのジムなのに、なぜ即決しろというのだろうか。

「このジムのオーナーは信頼が置けるわ。必ずあなたを強くしてくれる」

「どういうこと? オーナーの人を知っているの?」

 確かこのジムのオーナーは女性、それもフランス出身の元ボクサーだったはずだ。だが、母はなぜその人を信頼できるというのだろうか。

「昔の知り合いなのよ。とにかく、このジムに行きなさい。良いジムだわ」

 メアリーはそれ以上の詳しいことを教えてくれない。

「で、でも……」

「ママを信じて」

 そう真剣な表情で言われると、エミリはNoとは言えなかった。

「わかったわ……見学に行ってみる……」

 と返事をして、自分の部屋へと戻る。

 エミリはわからなかった。母はこんな小さな、歴史も浅いジムのオーナーをなぜ信頼できると言い切ったのか。

 数日後の土曜日、エミリは体操服を入れたバッグを持って池袋近郊にある朝宮ボクシングジムの入口の前にいた。結局、その後朝宮ジムに連絡して見学の予約をとったのだ。エミリは緊張していた。オーナーをはじめ、会員は皆女性だということだが、果たしてどんな感じの人達が集まっているのか? ボクシングをしているくらいだし、荒っぽかったり、怖かったりしないだろうか? 自分を受け入れてくれるだろうか?

 エミリは不安を拭えないまま、ドアをノックした。

「すみません、見学の予約をさせていただいた小早川と申しますが……」

「はーい、どうぞ入って」

 中からの声に答えて、エミリはドアを開けて入った。

 入ってすぐのトレーニングルームの中には四人の女性がいた。ドアの前に立ってエミリを出迎えてくれたのは四〇代ぐらいの赤い髪をしたヨーロッパ系の女性で、ジムのサイトの写真で見覚えがあった。おそらくオーナーのフランス人の元ボクサーだろう。奥の方の鏡の前では二人の女性が練習をしている。片方の背の低い、赤い髪の女の子――ちょうどオーナーと似た外見をしている――がグローブを付けてパンチを放っており、もう一方の背の高い、長い黒髪を一本にまとめた女性が手にグローブとは違った形をしたなにか――あれはミットというのではなかったか?――をつけて女の子のパンチを受け止めている。そして、もうひとりのショートカットの黒髪の女性はグローブを付けてサンドバッグを殴っている。一般的にイメージするボクサーのサンドバッグ打ちだ。

「あなたが小早川エミリさんね? はじめまして。私このジムの会長を務めているルネ・フィヨン・朝宮と申します」

 赤髪のオーナーは流暢な日本語でそう自己紹介して右手を差し出した。エミリはその右手を取って握手をする。

「よ、よろしくおねがいします……朝宮さん」

「ルネでいいわよ、エミリさん」

 ルネは微笑みながらそう返した。そして、練習している会員達の方を向いて言う。

「あなた達、見学のお客様よ。ご挨拶しなさい」

 ルネにそう言われると、皆は手を止めてエミリの方を向いた。

「はじめまして。吉川京子といいます。よろしくお願いします」

 長い黒髪を一本にまとめた女性がそう自己紹介した。その女性――京子はとても美しかった。特に目は切れ長の目で、さながら男装の麗人を思わせた。

「京子は一八歳で、去年プロデビューしたの。期待の新人ボクサーね」

「へえ〜……」

 ルネからそう説明されるエミリ。まだ高校生の年齢だというのに、プロボクサーだという京子に対しエミリはどこか遠い世界の出来事のように感じていた。

「私は森野香織といいます。よろしくね、エミリさん」

 続いてショートカットの女性が自己紹介した。香織は笑顔が似合う、爽やかで快活な感じの女性だった。歳はエミリとそう変わらないと思われた。

「私、朝宮まりあっていいます! よろしくお願いします!」

 赤い髪の女の子が元気そうに自己紹介した。赤い髪が鮮やかな、とても可愛い娘だ。エミリよりも一・二歳若いくらいだろう。「朝宮」という名字で、エミリはふと気がついた。

「ルネさん、まりあちゃんは……」

「私の娘よ」

 とルネは答えたが、これにこう付け加えた。

「けど、このジムの中ではあくまで練習生として扱っているわ」

 その時のルネの表情は、指導者としての厳しさを感じさせるものだった。

「マ……いえ、ルネさんは厳しいから」

 まりあが一瞬「ママ」と言いそうになり、慌てて言い直した。ルネの厳しさは、まりあにも伝わっているようだった。

「よろしくお願いします、皆さん」

 エミリはそう言ってお辞儀をした。

「さて、挨拶はここまでにしてボクササイズの話をしましょうか、エミリさん」

 ルネはそう言って部屋の片隅にあるテーブルについた。エミリも遠慮がちに椅子に座った。

「見学に来ようと思ったきっかけは何かしら?」

 とルネが訊く。

「私、内気な性格で悩んでるんです。そうしたら、母が――母はボクシングの嗜みがあるんですが――『体を鍛えれば自信がつくようになるから、ボクササイズでもやってみたら』と言うんです。それで、試しに見学に来させていただいたというわけです」

 エミリはそうこれまでの経緯を話した。

「そうねえ、ダイエットとかと違って結果がすぐ目に見えるわけじゃないけど、確かにお母様のおっしゃられた通り精神修養にも効果があると思うわ。私も小学校の頃は短気で、すぐ怒ってたの。髪の毛が赤いから、そのことでからかわれたりしてすぐに喧嘩になってたわ。だから、両親から『なにかスポーツでもやって発散したら』と言われて、それでボクシングを始めたの。そうしたら、無駄に怒らなくなったわ。強くなることで、精神が安定したんだと思うわ」

「へえ、そうなんですか」

 エミリから見たところ、ルネは母と同じような考えをする人間のように見えた。

「体を動かせるようになればできることが増えて自信がつくと思うわ。そうね、あなただったら身体がちょっと細いから鍛えて少し筋肉をつけるといいわ。そうしたらもっとスタイルも良くなるし、男の子からもモテるかもしれないわよ」

「えっ、本当ですか?」

 弘樹という想い人がいるエミリにとって、スタイルが良くなるというのは願ってもないことだった。もしかしたら、弘樹を振り向かせられるかもしれない。

「まあ、モテるかどうかは保証はできないけど、少なくとも健康的な体になるわ。どうかしら、今日は運動着を持ってきてもらったし、シャドーボクシングでも体験してみる?」

 確かに、予約の電話口で「体験のために運動着を用意してくれ」と言われたので体操服を持ってきたのだった。ここまで来て「やりません」というわけにもいかないし、スタイルが良くなるというのなら一度体験してみたほうがいいとエミリは思い、返事をした。

「はい、やってみます」

 十数分後、エミリは体操服を着た状態でヘロヘロになっていた。

 ルネの指導の元、シャドーボクシングのジャブからワンツーパンチの動作を一分間やっていたのだが、これが思っていた以上にハードでヘトヘトになってしまったのだった。

「どう? 初めてだったから疲れたでしょ」

 とルネが問いかけてくる。

「はぁ……はぁ……はい……」

 エミリは息も絶え絶えな様子で答えた。

 だが、エミリはこうも思った。確かにハードだが、これでスタイルが良くなり、あがり症も克服できて弘樹を振り向かせられるなら、乗り越えられないものではないと。

「けど……これはけっこう運動になりますね」

 エミリはそう言った。

「そうね、ちょっとした散歩よりはカロリーを消費するし、筋肉もたくさん使うわ。これに筋トレや走り込みなんかも加えるとより良い身体を作れるようになるわよ」

 とルネが答える。

「そうですね……前向きに考えてみたいと思います」

 エミリはそう答えた。

「やったぁ! じゃあ入会したら『エミリ姉さん』って呼んでいいですか?」

 まりあが喜んでそう言う。

「まりあ、まだ決まったわけじゃないわよ」

 と京子が釘を刺す。

「エミリさん、正式に入会することになったら一緒に練習しましょ」

 香織が微笑みながらエミリに右手を差し出す。エミリはその手を取って握手し、ぎこちなく答える。

「ええ、よろしくお願いします」

 エミリは更衣室で普段着に着替え終え、玄関で見送りを受けていた。

「それじゃ、結論が出たらまたよろしくお願いしますね」

 とルネが言い、見送る。

「ありがとうございました」

 エミリは玄関から出ていった。

 確かに、母の言ったようにルネはトレーナーとしての十分な経験と素質があるようだ。他の練習生たちもいい人そうだった。しかし、依然として母がこのジムに固執する理由がエミリにはわからなかった。

「エミリ、今日こそは渡辺先輩に告白するんでしょ!」

 ジム見学から三ヶ月経ったその日の放課後、エミリは瞳からそう問いかけられた。

「もちろん。今度こそ、告白してみせるわ!」

 エミリはそう自信を持って答えた。

 結局、あのあとエミリは朝宮ジムへの入会を決意し、メアリーに同意書を書いてもらった。本当は父親に書いてもらったほうがいいのだけれども、あいにくエミリの父・博也は警察官という仕事の関係上、家にいないことが多かった。メアリーに書いてもらった同意書と初回の月謝を手に再び朝宮ジムに行き、正式な会員になった。

 エミリはそれから週に三日ほどボクササイズに行くようになった。体育の授業以外のスポーツはほとんど未経験のため、ボクササイズというハードな運動に最初は毎回ヘトヘトになっていた。だが、エミリは次第に達成感・充実感を覚えるようになった。少しずつだが、体が動かせるようになり、昨日できなかったことが今日できるようになると、とても嬉しくなる。そうすると、以前より自信が湧いてきた。自分がすごくなったような、成長したような気がしてきた。それで、弘樹に告白しようという気になったのだ。

「あっ……先輩……」

 すると、エミリは廊下の先に弘樹を見つけた。出口へ向かって歩いている。エミリは瞳に向かって言った。

「じゃあ、行ってくるわ!」

 そして、弘樹の方へ走っていった。

「頑張ってね」

 瞳はそれを見てそうつぶやいた。

「渡辺先輩!」

「おう、小早川か。どうした?」

 エミリに後ろから呼びかけられて、弘樹は振り向いた。

「先輩、お話があるんですけど、ちょっといいですか?」

「うん? ああ、いいけど……」

 エミリはそう言って、弘樹を誘った。弘樹は不思議そうな顔をしながらついていった。

 エミリはあまり人目につかない校舎の裏に弘樹を連れて行った。

「で、話ってなんだ?」

 弘樹にそう問われ、エミリは赤くなりはじめた顔をうつむかせた。心臓がまた早鐘のように脈打つ。だが、覚悟を決めて言った。

「私、先輩のことが好きです! 付き合ってください!!」

 告白を聞いた弘樹はこれまでのことが腑に落ちたようだった。そして、微笑みながら言った。

「そうか、ありがとうな、小早川。とても嬉しいよ」

 エミリは弘樹の次の言葉を固唾をのんで待った。

「ただな、俺別に好きな子がいるんだ。だから、小早川の気持ちには応えてやれないんだ。ごめんな」

 エミリはそれを聞き、全身から力が抜けるような感覚を覚えた。ああ、やっぱり駄目だったか……。私なんて、先輩にとって値しないんだ……。エミリの心のなかで、ネガティブな気持ちが湧き出てきた。ボクササイズをするようになってからついたと思った自信も、まるで幻だったかのように消え去ろうとしていた。

「そうですか……こっちこそごめんなさい……」

「いや、お前が謝らなくてもいいよ。悪いのは俺なんだから。けど、立派になったな、小早川は」

「えっ?」

 弘樹の言葉で、エミリは俯いていた顔を上げた。

「前まではすぐ顔が赤くなって、俺とまともに話すこともできなかったもんな。けど、最近は俺とだけじゃなくて他の人とも、ちゃんと相手の顔を見て話せるようになったし。前よりもハキハキしてきた」

「そ、そうですか?」

 自分では思ってもみなかった変化について言われて、エミリは半信半疑だ。

「そうだとも。それだけ話せるようになれば、小早川は可愛いからきっと俺よりいい彼氏ができるよ。がんばれよ」

 弘樹はそう言うとエミリの頭を撫で、立ち去っていった。

 告白は失敗だった。けど、先輩は私のことをちゃんと見てくれていた。エミリはそのことが嬉しかった。

 そして、エミリはボクササイズを始めてからの変化が幻ではなかったと感じていた。ボクシングを本格的にやってみたい。そう思うようになった。

「……以上、判定によりこの試合、青コーナー・小早川エミリ選手の勝利です」

 レフェリーがそう告げ、エミリの青いアマチュア用グローブを付けた左拳を掲げた。エミリは青いヘッドギアをつけた頭を上げたが、その顔は勝利の喜びよりも試合を終えたことへの安堵や疲れの色のほうが濃かった。

 朝宮ジムに入ってから早くも二年近くの月日が経っていた。当初ボクササイズ目的だったエミリは、いつしか実際にアマチュアのボクサーとして試合のリングに立つようになっていた。この日も他のジムとの練習試合だった。

「やりましたね! エミリ姉さん!」

「おめでとうございます、エミリ先輩」

 判定後の対戦相手への礼を終え、リングを降りたエミリをまりあと後輩の工藤貴久子――昨年、彼女が中学二年のときにジムに入会した――が出迎え、勝利を祝福する。そして、その傍らにはセコンドに付いていたルネと京子、香織がいる。

「ありがとう、二人とも」

 エミリは微笑みながらまりあたちに礼を言う。

「お疲れ様、エミリ」

 香織がエミリの肩にタオルをかけてねぎらった。

「いい試合だったわ、エミリ。けど、もうちょっと積極性が必要ね」

 とルネが試合について評した。

「すいません、ルネさん……」

 エミリが少し申し訳無さそうに返事をした。それに対し、ルネは答える。

「まあ、反省はジムに帰ってからしましょ。今日はもう終わりだから、相手の皆さんにお礼を言って撤収よ」

「はい!」

 エミリたちは相手ジムの会員たちに練習試合の礼をしたあと、試合が行われた相手ジムから撤収し朝宮ジムへの帰途についていた。その道すがらのことだった。

「エミリ先輩はもうプロテスト受けられる歳ですよね。受けるんですか?」

 貴久子がそう訊いた。日本のプロボクシングでは一六歳からプロライセンスを取るためのテストを受けられることになっている。実際にプロの試合ができるのは一七歳になってからだが、それでもライセンスは取れる。エミリはもう一六歳になっていた。そして、次のプロテストの日程が迫っていた。

「いやいや、私はそんなプロなんて……今日の試合見たらわかるけど、私そんなに強くないし……」

 エミリは謙遜してそう答えた。

「えー、もったいない。エミリ姉さんもプロになったらいいのに」

 まりあが残念そうに言う。

「あんたが決めることじゃないでしょ。黙ってなさいよ、バカまりあ」

「何よ! 貴久子のいじわる!」

 二人は相変わらず口喧嘩を始めた。

「ほら二人とも、街中で喧嘩なんかしてたら警察に通報されるわよ」

 京子がそう言って二人を諫める。そんな中、ふと誰かが言った。

「私も受けてみればいいと思うけどな」

 香織だった。

「えっ……けど、私もともと性格改善が目的で、そんなプロを目指す気なんて……」

 エミリはそう答えたが、香織は続ける。

「そうよね、エミリは内気な性格を変えたくて、自信をつけるためにボクシングを習い始めたんでしょ?」

「はい……」

「なら、プロになってもっと強い相手と闘えば、もっと自信がつくよ。どうかな?」

「う〜ん……」

 エミリはそう言われて口ごもった。香織は昨年プロデビューし、すでに何戦か経験している。プロの試合を経験した香織の言葉だから、ある程度の信用は置けた。

「まあ、うちのジムとしてはあくまで本人の意志を尊重するから。まだ若いから、いろんな道があるわ。ゆっくり考えてみて」

 ルネがそう優しく提案した。

「はい、わかりました」

 エミリはそう答えた。

 自分がプロボクサーとして向いているわけがない、という考えは変わらなかった。だが、その一方で興味が湧いてきた。迷いが生じていた。

「えっ、プロボクサー?」

「うん、先輩も受けてみたらっていうの」

「ダメダメ、私は反対だからね!」

 数日後の放課後の帰り道、エミリは瞳に相談した。だが、瞳から返ってきた答えは予想通りのものだった。

「ボクシングって、殴り合いでしょ? しかも、今はまだアマチュアだからヘッドギアをつけてるけど、プロだったらなくなるんでしょ? 痛いよ、きっと。鼻血が出るし、顔がボコボコになるよ」

「う〜ん、そうだけど……」

 瞳の懸念はもっともなものだったから、エミリは答えられなかった。

「顔に傷でもついたら、彼氏できなくなるよ。絶対反対。私は今でも心配なんだから!」

 瞳は真剣な表情でそう訴えた。普通だったら、この時点で「プロテストを受けるのはやめておこう」となるだろう。だが、エミリは不思議とそういう気になれなかった。デメリットのほうが多いのに、受けてみようかという思いが打ち消せなかった。

 その日、母のメアリーと二人だけの夕食――父の博也は今晩もまだ帰ってきていない――で話をした。

「ママ、ジムのことで話があるんだけど……」

「なに、エミリ?」

 メアリーは優しそうな顔でそう答えた。

「実は、プロテストを受けるかどうかって話なの。香織先輩は受けてみたらって言うんだけど……」

 すると、メアリーの顔つきが変わった。表情がそれまでより少し硬くなった。

「あなたの気持ちはどうなの?」

 メアリーの問いかけに、エミリは少し黙り込んでから答えた。

「……正直、迷ってる。プロになれば当然厳しいけど、自分の中で受けてみようかって気持ちもちょっとあって……」

 それを聞いたメアリーは、少し考え込んだ。そして、答えた。

「エミリ、今度の土曜日も練習に行くんでしょ?」

「そうだけど……何?」

「見学に行かせてくれない?」

「えっ?」

 予想外の言葉だった。母は朝宮ジムに入会してからこれまで、エミリのボクシングについてはほとんど何も口を出してこなかった。見学など一度もしたことがない。それがなんで、今になって「見学したい」などというのだろう?

「あなたがどんな練習をしているのか見てみたいのよ。そうすれば、プロを目指すべきかどうか分かるわ」

「う、うん……それはいいけど……」

 エミリは渋々了承した。

「おはようございまーす」

 土曜日になった。約束通りエミリはメアリーを連れて朝宮ジムに行き、中に入っていった。

「あら、エミリ。いらっしゃ……」

 出迎えたルネがそこまで言ったところで言葉が止まった。見れば、目を丸くして口がポカンと開いている。驚愕の表情だ。普段からいい姿勢がどこか強張って見える。そして、その視線はエミリの隣にいる母・メアリーに向けられているのだ。

「メ、メアリー・ウェインライト……さん……」

 ルネの声は少し震えていた。緊張しているようだ。

「久しぶりね、ルネ・フィヨン。いや、今はファミリーネームに『朝宮』が付くんだったわね?」

 メアリーがそう答えた。表情には微かな笑みが加わっている。

 エミリは驚いた。ルネがこんな表情をするのは今まで見たことがない。

「ルネさん、母を知ってるんですか?」

 エミリは訊いた。その直後、母が以前言っていた言葉を思い出した。

――このジムのオーナーは信頼が置けるわ。必ずあなたを強くしてくれる

――どういうこと? オーナーの人を知っているの?

――昔の知り合いなのよ。とにかく、このジムに行きなさい。良いジムだわ

「母? メアリー・ウェインライトがあなたのお母様なの、エミリ?」

 ルネが少し混乱した口調でエミリに聞き返す。母の旧姓が「ウェインライト」だということは以前から知っていた。

「はい、そうですけど……」

「お母様からは何も聞いてないの?」

「聞いてないの」とは何のことだろう。エミリは答える。

「えーと、何をですか?」

 そう言うと、ルネは「信じられない」といった表情で答えた。

「エミリ、あなたのお母様はプロボクサーだったのよ。それもヨーロッパチャンピオンだったの」

 母がプロボクサー? しかも、ヨーロッパチャンピオン?

 エミリは信じられなかった。そんな話、一回も聞いたことがない。「ボクシングの経験がある」とは聞いたけど、せいぜい習った程度か、よくてアマチュアの試合をした程度だろうと思っていた。

「そんな昔の話はよしてよ、ルネ。今はただの主婦よ。第一、そんなに強くなかったし」

 メアリーが言った。すると、ルネが答える。

「何を言うんです。私をボコボコにしたでしょ!」

「えっ、ルネさんが?」

 練習していた貴久子がびっくりして手を止める。まりあや香織、京子もだ。

「ええ、そうよ貴久子。手も足も出ずにKO負け」

「えーっ!? ママが?! すごい!」

 まりあも驚愕の表情だった。京子や香織も驚いている。

「やめてよ、大体あなたはその後の試合で私に勝ったでしょ」

 メアリーが謙遜するように言った。だが、ルネは答える。

「私はあなたをKOできませんでしたよ」

「あれだけボコボコにしておいて、まだ物足りなかったの?」

 メアリーは笑みを浮かべながら答えた。そして、こう言った。

「けど、私をボコボコにしたからこそ、娘を預ける気になったのよ」

「ママ、なんでこのジムがルネさんのジムだって気づいたの?」

 エミリは、ここで抱えていた疑問を母に訊いた。自分がリストアップしたときは「朝宮ボクシングジム」としか書いてなかったのに、なんで気づいたのか。メアリーは答える。

「もう二〇年近く前の話だけど、ルネの引退と結婚のニュースが流れたのよ。日本人の『朝宮』さんって記者の人と結婚したって。あなた、当時の女子ボクサーの間では有名人だったのよ。気づいてた?」

 メアリーがルネの方を向いてそう言うと、ルネはどこか恥ずかしそうだった。

「それで、エミリがまとめたリストの中に『朝宮ボクシングジム』とあったときに、ピンときたわけ。あなたほどのボクサーが、引退してから大人しく専業主婦をするわけがないと思ってね。で、ジムのサイトを見たらビンゴだったわ」

「そうだったの……」

 とエミリはつぶやいた。さらに、ルネも言う。

「まさか、エミリがあなたの娘さんとは思いませんでした……」

「気づかなかったの? 入会のときの同意書に名前を書いたじゃない」

「いえ、あれには『小早川メアリー』って日本式の名前しか書いてませんでしたから……」

 とルネ。

「ま、今日はあなたが娘をどう指導しているか見させてもらうわ。あなたのことだから、多分大丈夫だろうけど。さ、エミリ。いつも通りに練習してきなさい」

「はい、ママ」

 エミリはそう答えて、更衣室へと入っていった。更衣室に入る前にチラと見たルネの姿は、いつもより明らかに緊張していた。

 それから一時間ばかり、メアリーはエミリたちのトレーニングの様子を見物していた。ルネはメアリーに見られていることを意識してか、いつもより指導に力が入っているようにみえる。ルネにとってメアリーは畏れのある存在らしい。エミリもいつもより緊張しながらシャドーボクシングやミット打ち、サンドバッグ打ちなどをこなしていった。それに対してメアリーは、ルネが用意した紅茶をすすりながら英国淑女らしく優雅にトレーニングの様子を見ていた。

 やがて、メアリーは休憩に入ったルネに対し、ある提案をした。

「ルネ、指導で疲れてるところ悪いけど、スパーしない?」

「えっ……」

 突然のメアリーの提案に、ルネはもちろん、エミリをはじめ練習生の皆が驚いた。

「ちょっと待ってくださいメアリーさん、スパーするって言ったって練習着もないですし……」

「実はね、現役時代のコスチュームを持ってきてるの。来る前に着てみたから、合うことは確認済みよ」

 そう言って、メアリーは持ってきたスポーツバッグを掲げた。

「それよりも、あなたは十年以上ブランクがあるでしょう。そんな状態で私とスパーだなんて……」

 ルネが心配そうに話すが、それに対しメアリーはこう言った。

「何、怖いの?」

「なんですって?」

 ルネの眉間にシワが寄る。

「私に負けるのが怖いからそんなこと言うんでしょ。門下生の前でいい顔しないといけないし」

 メアリーが挑発的な笑みを浮かべてそう続けた。なんてことを言うのか、とエミリは慌てた。そんなことを言ったらルネさんがどうなるか、母はわかって言っているのだろうか。案の定、ルネの顔は真っ赤になっていった。

「言わせておけば……あんたなんて怖くないわ! 上等よ、メアリー・ウェインライト! 今すぐやろうじゃないの、今度こそKOしてやるわよ!!」

 ああ、まずい。完全にキレている。エミリたちの前でもここまで激怒することは珍しい。ルネは先程までの敬語も完全に忘れて、今にもメアリーに殴りかかりそうだ。

「ま、待ってくださいルネさん! いくらなんでもヘッドギアはつけてくださいよ。あと、一ラウンド二分だけですよ、いいですね?」

 京子が二人の間に割って入り、ルネをなだめる。

「わかったわ、京子……メアリーさん、コスチュームに着替えましょう。こんな宣戦布告をされたんですもの、私も現役時代のコスで歓迎してあげますよ!」

 ルネはそう言って更衣室に入っていった。メアリーはそれを見てどこか嬉しげな笑顔を見せた。

「変わらないわね、ルネは……」

 エミリは心配そうな表情を見せていた。果たして母とルネさんのスパーリング、どうなってしまうのか?

 十数分後、二人がコスチュームに着替え終わり、ジムの一角にあるリングの上に立っていた。

 ルネは現役時代のフランス国旗をモチーフとしたスポーツブラとトランクスを纏って、手には赤いグローブ、頭には赤いヘッドギアをつけている。このコスチュームはジムに飾られている現役時代の写真で見たことがあった。どういうわけか、ジムに常備しているらしい。トランクスのベルトラインには「Taureau feroce」(フランス語で「猛牛」という意味で、ルネの現役時代のあだ名「フランスの猛牛」にちなんだものだ、と以前ルネから聞いた)という刺繍がされており、左太ももの部分には「Renais」とルネの名前のスペルが筆記体で刺繍してある。ルネの顔を見ると、とても闘志に満ちた獰猛な表情をしていた。先程の挑発のことをまだ怒っているらしい。

 対するメアリーは赤いスポーツブラと赤地に青のベルトライン・サイドラインのトランクスを纏い、手には青いグローブ、頭には青いヘッドギアをつけていた。スポーツブラの胸元には大きな白いバラが描かれており、トランクスの右太ももにも白いバラが、左太ももにはイギリスの国旗(ユニオン・ジャック)が描かれ、ベルトラインには赤い文字で「MARY」とブロック体で刺繍されていた。このコスチュームは今まで見たことがなかった。今日までメアリーがプロボクサーだったことすら知らなかったのだから無理もないが。キレているルネに対して、メアリーはどこか余裕があるのか、それとも久しぶりにリングに立てるのが嬉しいのか、微かな笑みを浮かべていた。

「ルールは知っていると思いますけど、ヘッディングやバッティング、ベルトラインより下への攻撃などは禁止です。あまり悪質な場合反則負けとします。一応、三回ノックダウンでテクニカル・ノックアウトとします。クリーンなファイトを心がけてください。では両者、グローブタッチを」

 レフェリー役を務める京子が二人の間に立ってルールを説明し、グローブタッチを促す。それに応じて、二人がグローブタッチを交わす。

「さっきの挑発を後悔させてあげますよ!」

 ルネが闘志のこもった目でメアリーに言う。

「お手柔らかにね、ルネ」

 対するメアリーはどこか余裕の表情だ。

「両者、コーナーに戻って」

 京子がそう促すと、ルネは赤コーナーへ、メアリーは青コーナーへと戻っていった。

「香織、ゴングを鳴らして!」

「はい!」

 京子の要請に香織がそう答えると、スパー開始のゴングが鳴った。ルネとメアリーがコーナーを飛び出し、リング中央へ向かっていく。エミリやまりあをはじめ、ジム内の皆が固唾を呑んで見守る。

 二人はリング中央でグローブタッチを交わした。するとルネがいきなり間合いを詰めてワンツーをメアリーの顔面へ向けて放った。なるほど、これがルネの現役時代に得意とした突撃戦法か、とエミリは思った。試合のビデオでは見たことが一回だけあるが、実際に目の当たりにするのは初めてだった。

 だが、メアリーはそれをサイドステップで躱し、ルネの右に回り込むと、左ジャブを数発顔面に浴びせた。

「ぶっ……ぶふっ……」

 最初の二発がルネの顔に当たった。ルネは目を眩めるが、すぐさまガードを上げて追撃を防ぎ、左ジャブの連打を繰り出した。

「ぶへっ……」

 最初の一発がメアリーの顔に当たった。だが、続くジャブをメアリーはバックステップで躱し、ルネのパンチの射程圏外に逃げていく。

「逃げるな!」

 ルネが叫び、再び突進し左右のフックを放っていく。メアリーはそれをスウェーバックで躱し、サイドステップで左に回り込みジャブを放つ。

「ぶふっ……」

 再びルネがジャブを被弾したが、二発目以降はガードでブロックし左に向き直ると左右のフックをメアリーの顔面に叩き込む。

「ぐはっ……」

 ルネの左フックがメアリーの頬に叩き込まれ、思わず動きを止めるが、続く右フックはガードで防ぐ。

「喰らえ!」

 ルネがさらに追撃をかけようとガードごとぶち壊すとばかりに左右のフックを顔面へと放つ。

「付き合わないわよ……」

 メアリーはそうつぶやくと、再びサイドステップでルネの右に回り込み、脇腹に左フックを叩き込んだ。

「ぐっ……このっ……」

 脇腹の鈍痛に表情を歪めるルネだが、すぐさまお返しとばかりに右フックをメアリーのボディに叩き込む。

「ぐうっ……さすがね……」

 ルネのボディブローの威力のまえに苦い顔をするメアリーだが、左ジャブの弾幕を張りながらバックステップで離脱していく。ルネは追撃をかけようと距離を詰めた。

 メアリーは再びサイドステップでルネの左側面に回り込み、ジャブを放った。それに対し、ルネはガードでそれを防ぐと、自分もサイドステップでメアリーの左に回る。二人はサークリングの状態に入り、お互いの様子を見る。

 再び動いたのはルネだった。持ち前の瞬発力で一気にメアリーとの間合いを詰めると、ボディへ左フックを放つ。

「ぐえっ……!」

 強烈な一撃を脇腹に喰らい、顔を歪めるメアリー。

「ママっ!」

 エミリが思わず叫ぶ。

 ルネは続けざまに右フックをメアリーの顔面へと放つ。だが、メアリーはそれをダッキングで躱すと、ルネのみぞおちめがけて左アッパーを突き上げた。

「ぐうっ……!」

 みぞおちに入った一撃に呻くルネ。メアリーが続けざまに顔面への右フックを放つ。

「くっ……!」

 ルネはそれを左腕でガードすると、右フックをメアリーの顔めがけて叩き込んだ。

「ぐはっ……!」

 ヘッドギアをしているとはいえルネの剛腕を喰らい、強制的に右を向かされるメアリー。しかし、すぐに正面に向き直ると、反撃のパンチを繰り出そうと左腕を振りかざす。ルネもそれを迎え撃たんと右肩を動かすが。

 カーン!!

「ストップ! 二人共、二分経ちましたよ。お疲れ様でした」

 香織の鳴らしたゴングの音が響き渡ると、京子が二人の間に割って入り制止する。あらかじめ決められていた一ラウンド二分の制限時間が来たのだ。二人はパンチを繰り出そうとした腕を止め、下ろした。

 京子がルネの手からグローブを外し、ヘッドギアを取る。香織もリングの中に入り、メアリーのグローブとヘッドギアを外していく。

「お疲れ、ルネ。大したものね、まだ現役でやれたんじゃない?」

 メアリーがルネに微笑みかける。

「いえ、そんな……あなただってすごいですよ。もう一〇年以上ブランクがあるはずなのに……」

 ルネはやや疲れた表情ながらも、右手を差し出しながらメアリーの言葉に答えた。メアリーはその右手を握り握手した。

「まあ、あなたより一歳年上だから『年の功』ってやつね。それに、あなたと最後に闘ったときより精神的には良かったし」

 握手しながらそう語るメアリー。

 それを見ながら、エミリは驚いていた。まさか母がルネと――世界を手にしかけたというあのルネ・フィヨン・朝宮と対等に渡り合うことができるとは。メアリーに対するイメージが変わりかけていた。

 家への帰り道、エミリはメアリーに話しかけた。

「すごかったね、ママ。あんなふうにルネさんと対等に渡り合うなんて……」

「いやいや、あれでも必死だったわよ。ルネったら現役時代の頃と動きが全然変わらないもの。本当、あのまま続けてたら確実に世界四大ベルトを総なめにできたのに……」

 そう語るメアリー。母のルネに対する評価はかなり高いようだった。

「それで、ママの現役時代の戦績はどうだったの? 世界タイトルとかとれたの?」

 エミリはテンションが上がっていたのか、高揚した気持ちでそう質問した。

 だが、それを聞いた途端、メアリーの表情は曇った。

「ママ……どうしたの?」

 エミリは何か言ってはいけないことを言ってしまったかのような、バツの悪い気持ちで問いかけた。

「……ごめんね、エミリ。ママ、そんなに強くなかったの」

 何を言っているのだろう、とエミリは思った。ルネとあれだけやり合い、しかもルネの言葉によればかつてヨーロッパチャンピオンで、ルネを一度倒したというのに。

「えっ、けどヨーロッパのタイトルを取ったっていうんでしょ?」

「そこまではよかったんだけどね……」

 メアリーはどこか懐かしげな笑みを浮かべると、続けた。

「ヨーロッパタイトルを三度防衛したあと、世界ランキングに入ったの。でも、そこで連戦連敗。ケチョンケチョンにやられたわ。それで、気落ちして引退することになったの。だめなボクサーだったわ」

 嘘だ、とエミリは困惑した。ルネとのスパーリングでの姿からは、想像がつかなかった。

「エミリ、ボクシングの世界というのは勝負の世界よ。当然、苦しいこともあれば辛いこともあるわ。プロの世界ならなおさら。だから、もしプロテストを受けるならその覚悟ができてからでないとだめよ」

 メアリーはエミリの瞳を真正面から見つめてそう言った。真剣な目だった。

「けど今日見学して、少なくとも技術的な面から言えば、大丈夫だと思ったわ。ルネは思ったとおり素晴らしい能力を持ったトレーナーよ。彼女なら、あなたを強くしてくれる。プロになってもね。だから、あとは覚悟の問題ね」

 エミリは黙ってうなずいた。だが、母が世界ランク戦で連敗の末引退したとは信じられなかった。

 その夜、エミリは自室のパソコンで動画投稿サイトを調べていた。メアリーの現役時代の試合動画がアップされていないか探してみたのだ。

 だが、結果は満足行くものではなかった。何しろ二十年も前のことだ。そんな時代の動画を上げている人はそうそういなかったし、だいたい映像が残っているかどうかすらわからなかった。

「お手上げね……」

 半ば諦めたエミリは、気分転換をしようと読書をすることにした。この時期読んでいたのはジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』だった。

 物語の終盤、アレック・リーマスとリズ・ゴールドがベルリンの壁を越えようとする場面まで読み進めたところで、ふいに玄関のドアが開く音がした。誰だろう、と思ったがこんな時間に鍵のかかったドアを開けられる人物は一人しかいない。エミリは自室を出て玄関の方へ行った。

「お、エミリ。まだ起きてたのか」

「おかえり、パパ」

 玄関にいたのは父の博也だった。博也は四十代のくたびれたオヤジで、今日に至っては無精髭さえ生やしていた。だが、こんな早い時間――それでも二三時をまわっていたが――に帰ってくることは珍しい。

「今日はロシアのスパイと戦わないの?」

 エミリは冗談めかしてそう訊いた。

「はは……何の事だか」

 博也は含みのある笑みを浮かべてそう答えた。

(うそつき)

 エミリは心のなかでそう思った。

 博也は警察官だということだった。だが、エミリは父が警察でどのような仕事に就いているか全く知らなかった。どの課に属しているかはもとより、職場が警視本庁なのか所轄なのかすら全く知らされたことがない。小学校の頃職場見学の課題が出されたとき、エミリは父の仕事を見てみたいと思ったが、そもそも父が家に帰ってこないのでできるはずもなかった。渋々母の英会話教室を見学したものだ。

 そんな調子なので、当然のことながらエミリは父のことを疑問に思うようになる。ある時、メアリーに訊いてみた。

「パパは本当に警察官なの? 何をしているの?」

 すると、メアリーは答えた。

「パパはね、多分警察の中でも一番秘密の仕事に就いているのよ」

 そして、そう思った理由について語った。

 曰く、メアリーと博也の出逢いは約二〇年前、博也がメアリーの父――つまりエミリの祖父――の職場であるスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)に研修に来て、その際に祖父が家に夕食に連れてきたことがきっかけだという。だが、メアリーは祖父がスコットランド・ヤードに勤めていた事自体が嘘だったという。

「私が子供の頃、一度おじいちゃんの上着を探ってみたことがあったの。けど、警察官のはずなのに身分証明証のひとつも入ってなかったし、それどころか書いてある名前が全部違う名刺が何種類も入ってたわ。それに、朝の通勤のときにあとをつけてみたこともあったけど、何回も回り道をされた挙げ句見失っちゃったわ。普通の警察官なら、あんなことするはずがないわ」

 メアリーはこう結論づける。

「おじいちゃんはきっと『サーカス』の一員だったのよ」

『サーカス』とはル・カレのスパイ小説の中でのイギリス秘密情報部(MI6)の通称だ。

「だから、パパもきっと同じような仕事をしているのよ。多分、警察の中でも外事課とかにいるんだわ」

 そして、エミリにこう付け加えた。

「パパはね、外国の悪い奴らから日本を守る仕事をしているの。けど、それは他の人に公にはできないのよ。だから、このことを他の人に言っちゃダメよ」

 以来、エミリはその約束を守っている。だが、父に冗談を言ったのは父の嘘に対するせめてもの抵抗だった。

「ママはまだ起きてるか?」

 博也はエミリにそう訊いた。

「もうソファーで寝ちゃってるよ。今日疲れてるし」

 エミリはそう答えた。実際、リビングのソファーではメアリーがうたた寝をしていた。スパーリングの疲れもあったのだろう。

「晩ごはんは食べたの? ローストビーフとフィッシュ・アンド・チップスが残ってるよ。もう冷めてるけど」

 とエミリが訊く。

「一応食べたけどいただくよ。ママのローストビーフは冷めても美味いからな。フィッシュ・アンド・チップスは……レンジで温めたほうがいいけど」

 博也はそう答えてリビングに入り、エミリもそれに続いた。

 リビングのソファーではメアリーが寝入っていた。博也はメアリーの体に毛布をかぶせてやると、頬にキスをした。そして冷蔵庫からローストビーフとフィッシュ・アンド・チップスの皿を出すと、フィッシュ・アンド・チップスをオーブンレンジに入れてスイッチを押し、テーブルに付くとローストビーフをグレービーソースにつけて食べ始めた。

「ほら、エミリ。お前も食べなさい」

「いいよ、私は。さっき食べたし」

 と父のすすめを遠慮するエミリだったが、博也は言う。

「ボクサーだったらタンパク質は大事だろ? それに、パパはもう歳だからあんまり食べすぎると胃がもたれるんだ。肉をたくさん食べられるのは若者の特権だぞ。遠慮するな」

「ありがとう、パパ」

 エミリは棚から自分の皿を出し、ローストビーフを一切れ取って載せると、グレービーソースをかけて食べた。レンジが鳴り、フィッシュ・アンド・チップスが温め終わったことを告げた。エミリはレンジから皿を取り出しながら博也に話しかける。

「そういえばパパ……ボクシングのことなんだけど」

「ん、なんだ?」

 エミリは語り始めた。プロテストを受けることを香織から勧められたこと、メアリーがジムに見学に来たこと、メアリーがプロボクサーだったという過去について。

「そうか、ママがプロボクサーだったのを知ったか。別に秘密にしてたわけでもないんだが、話す機会がなくてな……」

 博也はそうしみじみと、すこし申し訳無さげに話した。

「それで、ママの現役時代の試合のビデオや写真がないか探してみたんだけど、なかなか見つからなくて……もしパパがなにか持っているんだったら見せてほしいんだけど」

 そうは言ったものの、父がビデオを持っているとは思えなかった。だが、父から返ってきた答えは意外なものだった。

「ああ、持ってるぞ」

「えっ?」

 驚くエミリに対し、博也はフィッシュ・アンド・チップスのポテトをつまみながら話す。

「ママとパパの出逢いについては前話したろ? ママのパパ、つまりお前のおじいちゃんの務めてたスコットランド・ヤードにパパが研修に行ったっていう」

「うん」

 もちろん知っている。その一部が嘘だということも。

「そこでおじいちゃんに気に入られて、食事に呼ばれて、そこでママと出逢った。その時、ママはプロボクサーを引退したすぐあとぐらいだったんだが……ママとは格闘技の話で意気投合してな……ほら、パパも警察官だから柔道をやってるだろ?」

 それも知っている。以前、珍しく家族一緒に外出したとき、喧嘩をしている酔っ払いに遭遇したことがあった。その時、博也は突っかかってきた酔っ払いを背負い投げで投げ飛ばしたのだ。その後警察が来て引き渡したが、父が聴取してきた警察官から敬礼されていたのを見た。おそらく警察手帳か何かを見せたのだろう。父が警察官らしいところを見せたのは今のところそれだけだ。

「それで仲良くなって、そのうち付き合い始めた……その時に、ママから現役時代の試合のビデオテープを譲り受けたんだ。もちろん、今でも見れるようにDVDにダビングしてあるぞ」

 エミリにとっては願ったり叶ったりだ。母の現役時代の試合が見られる。

「食べ終わったら渡そう。だが、一晩で全部見ようと思うんじゃないぞ。何しろ一〇時間以上あるからな。夜更かしは健康にも美容にも悪い。いいな?」

「はい、パパ」

 エミリは父の言葉にうなずいた。

 その次の日から、エミリは父から渡されたメアリーの試合ビデオを毎日一本ずつ見るようになった。

 映像で見る若い頃のメアリーは美しく、そして強かった。華麗なヒット・アンド・アウェイを主体とするボクシングで次々と相手を翻弄し、倒していった。その強さたるや、デビュー後わずか五戦目でヨーロッパタイトルを奪取してしまったほどであった。

「これがヨーロッパタイトル防衛三戦目の試合か……」

 その日もエミリはDVDをプレイヤーのトレイに入れ、再生ボタンを押した。リングがテレビに映り、青コーナーの挑戦者が映し出される。そのボクサーはエミリの知っている人物だった。フランス国旗を模したトリコロールのスポーツブラとトランクス、白い肌、青い瞳、そして燃えるように鮮やかな赤く長い髪。顔立ちは今よりも若々しかったが、見間違えようがなかった。

「これは……ルネさんじゃない……」

 間違いなく、現朝宮ボクシングジムオーナー兼トレーナーのルネ・フィヨン・朝宮だった。もしかして、ルネがこの前言っていたKO負けした試合とはこのことなのか?

 対するメアリーは、この前のスパーリングのときの白バラの模様の入った赤地のコスチュームを着ている。ブルネットの髪はショートカットで、顔にはエミリと同じくそばかすがあり、赤い瞳が輝いている。コーナーに合わせた赤いグローブがよく似合う。王者としての威厳を感じさせた。

 試合開始のゴングが鳴り、両者がリング中央へと躍り出た。ルネはこの前のスパーのときも見た突撃戦法で一気に間合いを詰め、先制しようとワンツーを放った。だが、メアリーはそれをサイドステップで躱してルネの右に回ると、ジャブを浴びせていく。次々にメアリーの左ジャブがルネの顔面に命中した。ルネは怒り、仕返しをしてやろうと左右のフックを振り回すが、メアリーは既にルネの射程外へと離脱していた。その後もルネが追いかけると、メアリーはその突進を躱し、ジャブや時折フック・ストレートを混ぜてルネの顔面・ボディを突いていく。そしてルネが反撃する前にバックステップで離脱していった。ヒット・アンド・アウェイ戦法、これがメアリーが現役時代に確立した戦法だった。対するルネは、この前のスパーのときよりも動きが洗練されておらず、すぐカッとなり大振りのパンチを振り回すなど短気ゆえの欠点が目立った。まだデビューより日が浅く、経験不足が原因かもしれない、とエミリは感じた。

 六ラウンドに入る頃には、もうすでにルネはボロボロだった。顔はメアリーのジャブでボコボコに腫れ上がっていた。特に、鼻やまぶたといった急所が的確に撃ち抜かれていたため、鼻からは血が流れ、両まぶたは赤黒く腫れて視界を奪っていた。ボディも酷いものだった。こちらも鳩尾やレバーといった急所に集中砲火を浴び、青痣が浮かぶほど腫れていた。対するメアリーは顔も体も大したダメージがなく、涼しい顔をしていた。

 六ラウンドが始まり、大きなダメージを負ったルネはそれでも持ち前の負けん気でメアリーに向かっていく。だが、待っていたのはメアリーの機関銃のような高速の左ジャブだった。ガードはダメージのため意味を成さなくなっており、銃弾が紙切れを貫通するがごとく次々と左ジャブがルネのガードをすり抜け顔に命中する。鼻血がますますひどくなるが、それでもフックを繰り出していくルネ。だが、試合当初から比べて明らかに動きが鈍い。メアリーの前では的にしかならない。メアリーの右ストレートが顔面ど真ん中に着弾し、ルネは大きくふらついて後退りする。メアリーは一気にカタをつけようとプレスをかけながら左ジャブの連打を放ち、ルネをコーナーへと誘導していく。ルネは為す術もないままニュートラルコーナーへと追い詰められた。メアリーの左フックがレバーへ、右アッパーが鳩尾にねじ込まれ、ルネは悶え苦しみ、ガードを下ろしてしまう。すかさずメアリーの左右のフックがルネの顔面に叩き込まれる。強烈なパンチを食らって意識が朦朧とした様子のルネを見てレフェリーが止めようと動きを見せたその直後、メアリーの止めの右アッパーがルネの顎を突き上げた。意識が飛び、前のめりに倒れるルネをメアリーが受け止める。その瞬間、レフェリーが両腕を交差し、試合終了のゴングが高らかに鳴らされた。

『六ラウンド一分一〇秒、チャンピオン・メアリー・ウェインライト選手のTKO勝利です!!』

 勝利がアナウンスされ、右腕を掲げてアピールするメアリー。対するルネは、意識が戻らないまま担架に載せられて運ばれていく。メアリーの圧倒的勝利だった。

『この試合をもってヨーロッパタイトルを返上し、世界ランク戦に打って出ます!』

 試合後のインタビューでメアリーはそう宣言し、リングを降りた。ビデオはここで終わっている。

 エミリは改めて母の強さを目の当たりにし、興奮した。もしかして、「世界ランク戦で連戦連敗した」というメアリーの言葉は嘘なのではないかとすら思っていた。その日のうちは……。

『あーっと、ここで試合終了! 三ラウンド一分四三秒、エミリー・スペクターが本日世界ランキングデビューのメアリー・ウェインライトをTKOで下しました!』

「うそ……」

 翌日、世界ランク初戦のビデオを見たエミリは驚愕した。メアリーは相手の剛腕の前になすすべなくTKO負けを喫したのだ。前回のルネのように担架で運ばれ、リングを降りるメアリー。今までのメアリーの試合を見てきたエミリにはこの結果が信じられなかった。何かの間違いだ、まぐれに違いない、とも思った。

 だが、その次の日以降に見たビデオでも、メアリーは連敗を喫した。あるときはパワーで圧倒され、あるときはテクニックで翻弄され、KOないし判定負けを喫した。勝った試合もあったが、それにしても僅差での判定勝ちであり、かつてのような気持ちのいいKO勝利はなかった。

 世界ランキング初戦を見たとき、エミリにはメアリーのボクシングが以前より衰えたというふうには見えなかった。いずれの試合でもメアリーはヒット・アンド・アウェイ戦法を試みたが、相手の技量が上回り通用しなかったのだ。つまり相手が強すぎた。俗に言う「世界の壁」というものだと思われた。そして、それにぶち当たる度、メアリーはどんどん気落ちして動きが鈍くなっているようにも思われた。

 ついに、最後のDVDを見る日になった。おそらくこれがメアリーの現役最後の試合だろう。エミリのディスクを持つ手は震えていた。トレイに入れ、再生を開始する。

 リングが映し出され、続いて赤コーナーのメアリーが映った。メアリーの表情は明らかに暗く、緊張し(それも悪い部類の緊張だ)、追い詰められているように見えた。顔色が悪く、眉間にはシワが刻み込まれ、目は細く、目の下にはクマができていた。明らかに万全の状態とはいえない。

 続いて青コーナーの選手が映し出された。

「あっ……」

 エミリは思わず声を漏らしていた。そこに映っていたのは他の誰でもない、ルネだった。ルネが世界ランキングに上がってきたのだ。

 ルネの表情はメアリーとは対象的に活き活きしていた。目には炎が宿っているように見え、前回のリベンジを果たそうという闘志がみなぎっているようだった。顔色もよく、程よく汗をかいた身体はウォームアップが整っているようだ。メアリーとは逆に万全の状態。この状態で闘えば、どちらが勝つかは火を見るより明らかだろう。

 ゴングが鳴り、試合が始まった。ルネが勢いよくコーナーを飛び出し、メアリーに迫る。メアリーはルネの突進を回避しようとサイドステップを踏むが、タイミングがどう考えても遅すぎた。ルネのワンツーがメアリーの右まぶたを突き、鼻っ柱に突き刺さり血がほとばしる。面食らったメアリーに対しルネは続けざまに左右のフックを頬に叩き込む。メアリーはガードを上げるが、ルネはその隙を突き左フックを右脇腹に、右アッパーを鳩尾めがけて突き上げる。足が止まったメアリーに対し再び左右のフックを顔面にぶち込むルネ。早くもルネがメアリーを圧倒している。

「ママ、負けないで……」

 エミリがそうつぶやく。実際にはもう約二〇年前の出来事だというのに。

 メアリーはルネの攻撃から逃れようと左ジャブの連打を放ち、バックステップで離れようとした。ルネは最初の二・三発を喰らったが、続くジャブはガードし再び間合いを詰めていく。メアリーのステップは明らかに精彩を欠き、距離をあっという間に詰められてしまった。再びルネのフックがメアリーを襲う。メアリーはパンチを顔面に喰らいながらも反撃しようとフックを返すが、ルネは一・二発食らってもものともせずパンチを返してくる。打ち合いに完全に負けた形になる中、一ラウンド終了のゴングが鳴った。ボロボロになったメアリーが赤コーナーへ戻っていく。ルネのダメージは明らかにメアリーよりずっと軽く、闘志は更に燃えたぎっているようにすら見えた。

 その後のラウンドもルネの猛打が爆裂し、メアリーはそれによって大きなダメージを負い続けた。メアリーの動きは前回の二人の対決のときと比べて明らかに精彩を欠いていた。ステップワークは鈍くなり、相手の動きを読むテクニックも明らかに劣って見えた。世界ランク戦での連敗による精神的ダメージによるものだろう、とエミリは感じた。ルネの成長も目立った。動きは速くなり、パンチの威力も増し、何より前の試合より冷静になっているように見えた。前の試合ではカッとなって大振りのパンチでカウンターをとられることが多かったが、それがほとんどない。メアリーがカウンターを打てなかったという面もあるが、ルネのパンチの振りがシャープになり、精神的にも成長したということもあるだろう。それでいながら、持ち前のタフネスや負けん気の強さを生かした豪快なブルファイトは少しも衰えておらず、むしろ勢いを増している。まさに「フランスの猛牛」らしい強さだ、とエミリは思った。

 六ラウンドに入ると、ついにメアリーがダウンを喫した。ルネの猛打が爆発し、大の字に倒れる。もう立てないのではないか、とエミリが感じるほどの強烈なダウンだった。だが、メアリーは立ち上がった。戦意を確認するレフェリーに対し、ファイティングポーズを構えて試合再開を訴える。だが、そのダメージはかなり深そうに見えた。試合が再開され、ルネがまた殴ってやろうと迫ってきたところで救いのゴングが鳴った。

 七ラウンドもルネの攻撃は止まるところを知らず、メアリーの顔にもボディにもルネのパンチが次々と打ち込まれた。ラウンド終了間際、ロープ際に追い込まれたメアリーに対しルネの左ボディアッパーがねじ込まれ、体がくの字に曲がったところに打ち下ろしの右フックが顔面に炸裂し、メアリーは体が一回転するほどの勢いでダウンを喫した。エミリは思わず顔を手で覆った。だが、それでもメアリーはロープをグローブでつかみ、なんとか立ち上がった。意識は朦朧としているように見えたが、それでもファイティングポーズを構え再開を求めていた。すでにラウンド終了のゴングが鳴っていたため、そのまま赤コーナーに帰された。

 もうすでに勝敗は決したも同然だった。ポイントからいっても、ルネの勝利は間違いないだろう。なぜメアリーのセコンドはタオルを投げないのか? そう訝っていると赤コーナーのインターバルの様子が映った。見れば、なにか話しかけているセコンドに対しメアリーが必死で首を横に振っている。棄権を拒否しているのだ。元ヨーロッパチャンプのプライドゆえか、それとも一度勝った相手に負けられないという意地ゆえか。

「ママ、もういいよ……」

 エミリの言葉も虚しく、八ラウンド、すなわち最終ラウンドのゴングが鳴った。足取り重くコーナーを出るメアリーに、勢いよく向かってきたルネが襲いかかる。ルネの暴風のような左右のフックの連打がメアリーの顔面・ボディに叩きつけられる。ボディへのフックで足が止まり、顔面へのフックで身体が左右に踊らされる。メアリーはなんとかガードを上げようとするが、これまでのダメージとルネの強烈なパンチのためにガードが意味をなさなくなっている。次々にルネのパンチを被弾しながらも、試合を止められないように手を出そうとするメアリー。放ったパンチの何発かがルネに命中するが、ルネはものともしない。だいいち、放ったパンチの数が違いすぎる。ルネに一発当たるうちにメアリーには一〇発当たるのだから、勝てるはずもない。残り一〇秒というところで、ついに赤コーナーへと追い詰められてしまった。ルネは「判定に持ち込ませるものか」とばかりにパンチの嵐を浴びせてきた。もはや反撃もできず、ガードを上げているのがやっとのメアリー。次々にパンチを浴び、顔が歪められ、腹が抉られる。顔はルネの強烈なパンチのため赤黒く腫れ、鼻血で朱く染まっている。

 残り三秒になったその時、ルネがメアリーのレバーに左アッパーを突き上げた。急所を抉られ、顔を苦痛に歪めて屈むメアリー。ガードが降り頭を突き出した瞬間を見逃すルネではなかった。

 ルネの必殺の右アッパーがメアリーの顎を突き上げ、メアリーの口からマウスピースが打ち上げられる。強制的に天井を向かされた顔から覗く目は、生気を失っていた。

「ママっ!!」

 エミリは思わず悲痛な叫び声を上げてしまった。

 その瞬間、ゴングが鳴り響いた。一瞬メアリーのTKO負けを告げるゴングかと思ったが、実際はラウンド終了、そして試合終了を告げるゴングだった。ルネに顎を突き上げられたメアリーは前のめりに倒れ込むが、レフェリーが二人の間に割り込んで受け止めた。ほとんど意識を失いかけているメアリーをレフェリーが抱えて赤コーナーに連れていき、対するルネは右腕を掲げながら青コーナーに戻っていく。その顔は、メアリーを仕留められなかった悔しさからか、どこかすっきりしない表情だった。

 しばらくして、判定の時間になった。赤コーナーで手当を受けてなんとか意識が回復したメアリーがセコンドに支えられてリング中央へ行き、ルネとレフェリーを挟んで並ぶ。

『以上、三対〇、ユナニマス・ディシジョンにより勝者は青コーナー・ルネ・フィヨン!!』

 当然の結果だった。レフェリーがルネの右腕を掲げる。ルネが勝利の栄光を浴びる間に、メアリーは頭にタオルをかけられ、セコンドの肩を借りてリングを降りる。その顔は憔悴しきっており、「何もかも終わった」といった表情だった。エミリはここで停止ボタンを押した。

 ふと、エミリの手の甲に何かが落ちてきた。よく見ると、それは水滴だった。

「あれ……私……?」

 そこで初めて、自分が涙を流していることにエミリは気づいた。

 このとき、エミリの胸の中である決意が芽生えた。

 次の日、ジムに行ったエミリはルネに話しかけた。

「ルネさん、話があるんですが」

「なに、エミリ?」

 エミリの様子から察したルネは、事務室に場所を移した。エミリが言う。

「プロテストの件ですが、受けさせてください」

「そう……けど、この前は乗り気じゃなかったみたいだけど?」

 エミリの心変わりを不思議がるルネ。

「母の現役時代の試合ビデオを見ました。母の最後の試合の相手、ルネさんだったんですね」

 ルネはエミリの言葉で腑に落ちたのか、どこか納得した表情になった。

「そう、知ったのね」

 ルネは続ける。

「あなたのお母様は素晴らしいボクサーだった。けど、世界ランクでは残念ながら通用しなかった。それで、気落ちして万全の状態じゃなかったことも知っていたわ。ボクサーとして試合で手を抜くわけにはいかなかったので全力でやらせてもらったけど、万全の状態のメアリーさんと闘えなかったのが残念だったわ」

 少し悲しげな表情でルネはそう語った。

「それはわかります」

 エミリはそう言うと、ルネの目を正面から見つめて言った。

「私は、母の無念、母の悔しさを晴らしたいと思っています。母の代わりに世界のベルトを獲る。そのために、母に引導を渡したあなたの力を貸してください」

 そう宣言したエミリの目には炎が浮かんでいた。ルネは少し考え込んだあと、うなずく。

「わかった。あなたの覚悟、受け止めさせてもらうわ。けど、世界の頂点を目指す以上、甘いものではないわよ。いいわね?」

「はい!」

 ルネの問いかけに、エミリは力強く答えた。

 その日から、プロテストならびにプロデビュー、そして世界タイトル奪取を最終目標とした猛特訓が始まった。それはこれまでのアマチュアボクシング用の練習よりもずっと厳しいものだった。並の人間なら音を上げてしまうほどだっただろう。だが、エミリはそれに耐え、ついていった。かつての彼女なら考えられなかったことだ。

 この日も、エミリは特訓をしていた。リングの上で、ヘッドギアをつけたエミリがスパーリングパートナーの京子相手にパンチを繰り出す。間合いを詰め、京子の顔目掛けて左ジャブ・右フックを叩き込もうとするが、京子はバックステップでそれを躱すと、左ジャブの連打をエミリの顔に浴びせた。

「ぶっぶへっ……」

 ジャブがエミリの顔に当たり、面食らい顔をしかめる。それでも、間合いを取ろうとする京子に対し追いすがり詰めていくエミリ。京子が詰めてくるエミリに対しジャブを続けて浴びせる。

「くっ……」

 ガードでジャブをブロックしながら、隙を見て反撃の左ジャブを浴びせるエミリ。だが京子もジャブをブロックする。ここで、スパーリング終了のゴングが鳴った。

「エミリ、ちょっと休憩にしましょ」

 リングの外から香織がそう話しかけると、中に入りエミリのグローブとヘッドギアを外していく。香織が続いて京子のグローブとマウスピースを外すかたわら、エミリは口からマウスピースを外し、京子に話しかける。

「ありがとうございました、京子先輩」

「だいぶ踏み込みが良くなったわね、エミリ。けど、ガードをちゃんとしないと無駄にダメージを受けることになるし、もっと悪いと怪我をすることになるわよ」

「わかりました」

 京子の忠告に反省した様子でうなずくエミリ。

「無理してファイトスタイルを変えることもないと思うけど……」

「無理なんかしてません」

 エミリは京子の言葉にそう反論した。プロになると決心してから、エミリはファイトスタイルの改造に取り組んでいた。それまでは距離を取ってジャブを当て、ポイントを稼ぐどちらかといえばアウトボクサーのスタイルだったが、それをルネのようなインファイタースタイルに変えようというのだ。だが、京子の言ったようにそれは困難を伴うものだった。

「京子先輩の言う通り、無理は禁物よ。けど、それでもエミリはインファイトができるようにしたいんだよね。なぜ?」

 香織がそう問いかける。エミリはその問いにこう答えた。

「母のヒット・アンド・アウェイの技術は優れたものでした。けど、それをもってしても世界の壁は超えられなかった。世界タイトルを取るためにはもっと積極性が必要だと思うんです。だから……」

「ルネさんのようになりたい、ってわけね」

 香織が相槌を打った。

「別に、インファイトだけが強くなる道じゃないわよ。いろいろな方法があるわけだし……」

 と京子が疑問を示した。それにエミリはこう答える。

「わかってます。けど、私不器用だから目の前にあるものを試してみるしかないんです。それが今回の場合はルネさんだった、というだけです」

 エミリの言葉に、京子は少し考え込むと、うなずいた。

「なるほど。なら、あなたの思ったようにしなさい。私も協力するわ。けど、攻撃だけじゃなく防御も考えなさい。パンチドランカーにでもなったら世界タイトルどころじゃなく、一生を台無しにするわよ」

「はい!」

 京子の言葉に、エミリはうなずいた。

 プロになると決意してから約二ヶ月後、いよいよプロテストの日がやってきた。エミリはルネ、香織とともに会場にいた。

 プロテストでは筆記試験と実技試験の二種類の試験がある。どちらも受験者がプロボクサーとして必要なボクシングのルールや技術について理解しているか、そしてそれらを備えているか確認するためのものだ。

 エミリは筆記試験と計量、医師による検診を終え、いよいよ実技試験を受けることになった。実技試験はヘッドギア等の防具をつけて、二ラウンドのスパーリングを行うことになる。着替えを終え、グローブと防具をつけたエミリに対し、ルネが話しかける。

「エミリ、実技試験はあくまであなたがプロボクシングに堪えうるかを見るものよ。相手を倒すことは必須じゃないわ。いつも練習してきたことを思い出すだけでいい。気楽にやりなさい」

「はい、ルネさん」

 エミリはルネの言葉にうなずき、リングへと上がった。

 エミリはコーナーは青コーナーであり、赤コーナーには今回の試験の受験者の一人がスパーリングパートナーとして立っていた。エミリより明るい茶髪をショートカットにしていて、背はエミリと同じくらいだった。

「ただいまより赤コーナー・法橋美遥(ほうはし みはる)受験生と青コーナー・小早川エミリ受験生の実技試験を行います。実技試験は一ラウンド二分、計二ラウンドのスパーリングとなります」

 会場内にアナウンスが流れた。レフェリーが二人に手招きし、リング中央に来させる。

「ルールについては知ってると思うが、ヘッディングやバッティング、ベルトラインより下への攻撃などは禁止。あまり悪質な場合反則負けとする。クリーンなファイトを心がけること。では両者、グローブタッチを」

 レフェリーがルールと注意事項を説明し、二人にグローブタッチを促す。二人は黙ってグローブを合わせた。相手の美遥を見ると、だいぶ緊張した表情をしている。プロライセンスの合格がかかっているのだから当然だろう。相手から見たら、自分も同じような表情をしているのだろうな、とエミリは思った。

「両者、コーナーに戻って」

 そう促されて、二人はお互いのコーナーへといったん戻った。

 青コーナーでエミリは心臓が早鐘のように脈打つのを感じた。久方ぶりの感覚だ。しかし、あの時から自分は成長した。

(大丈夫、私はやれる)

 自分に心のなかでそう言い聞かせてその時を待つ。

「ラウンドワン、ボックス!」

 スパー開始のゴングが鳴った。エミリと美遥はお互いのコーナーを出ると、リング中央で再びグローブタッチをした。そしてサークリングに入り、お互いの様子を見る。

 先に動いたのはエミリだった。勢いよく踏み込んでワンツーを打っていく。

「ぐっ……」

 美遥はエミリの踏み込みの良さに面食らったのか、ワンツーのうち左ジャブを喰らってしまうが、右ストレートはサイドステップで躱し左ジャブを打っていく。

「ぶふっ……」

 エミリも最初の一発を喰らってしまうが、続くジャブはガードでブロックし、こちらもサイドステップで美遥の側面に回り込もうとする。美遥が続けて左ジャブを打つ一方で、エミリも左ジャブを打ち返し、ジャブの応酬となった。リング中央で打ち合いが展開される。

 その光景を、ルネと香織はただ見つめているだけである。プロテストの実技試験ではジム関係者が声援や指示を飛ばすことは禁止されている。ただ、エミリのテスト合格を黙って祈ることしかできない。

 膠着状態を破ろうと、エミリが美遥の左ジャブをパリングで弾き飛ばし、左フックを美遥の顔めがけて叩き込んだ。

「ぐはっ……!」

 左フックが美遥の顔面ど真ん中に叩き込まれた。美遥の鼻が赤みを帯びる。目をパチクリとさせて後ずさる美遥。エミリが追撃を加えようと、左ジャブを顔面に浴びせていく。最初はガードで防いでいた美遥だが、体勢を立て直したのか、ダッキングで躱すと右脇腹めがけて左フックをねじ込む。

「ぐえっ……!」

 顔面に集中していたためボディがおろそかになっていたエミリ。思わず息を漏らすが、続く右ボディフックを左肘でガードすると、右フックを相手の左脇腹めがけて叩き込んだ。

「ぐうっ……!」

 脇腹の鈍痛にうめく美遥。エミリが追撃をかけようとするが。

 

 カーン!

「ストップ! 一ラウンド終了だ。両者、コーナーに戻って!」

 ここで一ラウンド終了のゴングが鳴り、レフェリーが二人をコーナーへ戻るよう促す。

 青コーナーに戻ったエミリは赤コーナーの美遥を睨みながら思う。

(これはテストであって試合じゃない……相手を倒す必要はない……けど、私のファイトスタイルが通用することは証明しないと……)

「ラウンドツー、ボックス!」

 カーン!

 第二ラウンド開始のゴングが鳴り、両者が再びリング中央で相まみえる。今度は美遥のほうが先手を取ってジャブを放つが、エミリはそれをガードし距離を詰めていく。間合いを詰めてくるエミリに対し、美遥はバックステップをとって間合いを維持し左ジャブの連打を浴びせるが、エミリもまた脚力を生かして美遥に喰らいつこうとする。

「このっ……」

 しびれを切らした美遥が右ストレートをエミリの顔面に叩き込もうとする。

「ぐっ……」

 だが、エミリはそれをガードでブロックすると、パンチの戻りを突いて一気に美遥の懐に飛び込んだ。

「ぐはっ!」

 エミリの左フックが美遥の右まぶためがけて叩き込まれた。とっさに目をつぶった美遥だがパンチの威力の前に表情を歪ませる。ヘッドギアがあるスパーリングのため直撃は避けられたが、実際のプロの試合では相当なダメージを負うことになっただろう。

「危ないパンチをしっかりガードしてますね」

 とリングサイドで香織がルネに言う。

「ええ、京子の教えが効いたようね」

 とルネ。さらに、ルネはリングの上のエミリを見て気づいたことがあった。

「あら……あの打ち方は……」

 リング上のエミリは、相手の急所である鼻やまぶた、レバーや鳩尾を狙ってパンチを浴びせている。まだ荒削りな部分があるが、そのパンチはかつてルネが闘ったブルネットのボクサーを思い出させた。

「ふふっ……血は争えないわね……」

 ルネはそうつぶやいて、笑みを浮かべた。

 エミリのパンチを浴びる美遥だが、やられるばかりではない。エミリの右フックをスウェーで躱すと、戻りを突いて右ストレートを顔面に打ち返す。

「ぐえっ!」

 お返しとばかりに左まぶたにストレートが直撃し、ふらつくエミリ。美遥は一気に形勢を逆転しようとパンチを繰り出していくが、左フックを繰り出した瞬間、あるべき場所にエミリの姿がなかった。

「ぐうっ……!」

 次の瞬間、鳩尾に鈍痛が奔った。思わずマウスピースをこぼしそうになる美遥。エミリはダッキングで美遥の左フックを躱し、右アッパーを鳩尾に突き上げたのだ。後退りする美遥に対し左右のフックを顔面に浴びせていくエミリ。美遥はガードを固め、反撃のチャンスを探る。だが。

 カンカンカーン!

「ストップ! 二人共、スパー終了だ!」

 スパー終了のゴングが鳴り、レフェリーが二人の間に割って入る。それまで相手を倒さんと殴り合っていた二人だが、それに気づくと手を止め、緊張の糸が解けたのか表情を和らげた。そして、お互いの健闘をたたえ抱き合った。

「法橋さん、スパーリングありがとうございました……」

 そう美遥に話しかけるエミリ。

「あなたのパンチ、とても鋭かったわ、小早川さん。もしテストに受かってたら、またプロのリングで会いましょ。もちろん、勝つのは私だけど」

 美遥はそう言ってエミリの健闘をたたえた。

「あなたのジャブもキレがありましたよ……。またリングで会いましょう。負けませんよ!」

 エミリはそう答え、青コーナーに戻った。

「以上で、法橋受験生と小早川受験生の実技試験は終了となります。結果は明日発表します。お疲れ様でした」

 アナウンスが流れ、エミリはリングに上ってきたルネと香織により防具を外され、リングを降りた。

「お疲れ様、エミリ。よくやったわ」

「ありがとうございます、ルネさん」

 ルネからのねぎらいの言葉に答えるエミリ。会場のホールをあとにし、控室へと向かっていった。

 翌日、合格者が発表され、その中にエミリの名前もあった。

 そして現在。

「小早川選手、まもなく試合です。入場準備をお願いします」

 控室のドアを係員がノックし、エミリを呼ぶ。

「時間ね。さ、エミリ。行きましょ!」

「はい!」

 ルネの言葉に、エミリはそう答えて両拳につけた青いグローブを打ち鳴らし、椅子から立ち上がった。

「小早川先輩、相手はオセアニアでも名うてのインファイターです。彼女のフックには注意してください」

 ホールへの道で、昨年ジムに入ってきた後輩の上条真帆が話しかける。まだボクシングを始めて日が浅いが、持ち前の頭脳とタフネスを武器に闘っている。セコンドとしては良き参謀役を務めている。

「ありがとう、真帆。けど、インファイター相手なら望むところよ。勝ってくるわ!」

 エミリは微笑みを浮かべて真帆に答えると、ホールへ入っていった。

『これより、OPBF女子スーパーフライ級八回戦を行います。まずは、青コーナー・小早川エミリ選手の入場です!』

<了>

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